いつの間にか、自分も本日で40歳を迎えました。
過去に30歳までの人生は考えていたけれど、自分が40歳になる予想は全くなぜかしていなかった。
フリーカメラマンとして、これからが正念場。
っという意味でも長くなりますが振り返ってみようと思います。
- 仮死で生まれた昭和56年
- 初めて記憶を失った幼少期
- 中華テーブル大戦争に敗北して泣きながら帰る
- タクシーに跳ねられ、走馬灯を知った小学生時代
- 池田から鶴田に名前が代わって新しい学校でサッカー少年に
- 何故かジャニーズ事務所でジャニーさんと顔面0距離になり、ビビってたじろぐ中学生時代
- 手に職をつけるために工業高校電気科に進むも失敗
- 電気はダメ、それなら自分が好きな写真を仕事にしたい!
- 5年間勤めた出版社がガサ入れが入り、出版停止で突然明日から無職
- 制作会社で動画編集を学び、体調を崩し天職を知る
- 自分の価格を交渉する力を身につけた量販店時代
- フリーカメラマンのみで勝負する!
- 月商100万円を目指して達成できたものの、どん底に落ちる
- 毛利元就の”三本の矢”ならぬ柱を軸に仕事を考える
- どうにかなるで生きてきたけれど、どうにもならなかった
- これからどうする?40歳からの生き方
仮死で生まれた昭和56年
記憶にない部分ですが、出生時息をしておらず仮死状態だったとのこと。
生まれた時から死にかけてたし、死にかけても死なないのは生まれた時からの生命力。
生きることの強さはこのときから始まってたのかもしれない。
初めて記憶を失った幼少期
今でこそ、ルンバに乗って部屋を巡回する犬や猫って動画あるじゃないですか。
親が目を離した隙に何を考えたのか部屋にある本棚を上り、一番上にあるレコードプレイヤーの上に乗って回って遊んでたそうです。
幼稚園に通うようになると、運動神経がいい年長の真似して身体能力がないにもかかわらず、ジャングルジムに登ってアクロバットして落っこちたり、集合写真撮影時に足が届かないのに、年長の真似をして鉄柵に座ろうとした瞬間、後ろ向きに落っこちてコンクリートに頭を強打。
あ、頭から血が出た...!っと思って確か10秒たたないくらいでふっと目の前が真っ暗になり、気づいた時は病院だったのをいまだに覚えてます。
何かに憧れて真似をするっていうのはこの時からの本能だったのかなと。
中華テーブル大戦争に敗北して泣きながら帰る
ある日、父親の仕事関係者さん家族と父親とご飯に行った。
この時の関係者さんが実は小泉純一郎さんご家族。
後でなんで小泉さん家族とご縁があったのか聞いて知った話なのですが、「なんてたってアイドル」をパロディにして「なんてったって小泉」にして選挙(?)か何かのサポートしたのが親父らしい。
初めて行った中華料理屋の中華テーブルは子供の自分にはとても魅力的だった。
当時子供だった孝太郎さんか進次郎さんのどちらか覚えてないのですが、料理が配膳されて回して好きなものを取ろうとした時、ずっと抑えられてて「だめ!」と怒られ泣いていたら父親に怒られて一人で帰らされた記憶。
くるくる回るのが斬新で、めちゃめちゃ気に入ったのか料理来る前に回して遊んでたような。
多分そういうこともあって「マナーとしてダメだよ!」ってのを教えていただいたんだと思うのですが、子供の記憶なので改竄されて覚えている気がする。
これはいまだに正しい記憶がわからなくて、小泉純一郎さんに会うことが合えばお詫びしてその時のことや、親父のことあんまり覚えてないので聞いてみたい。
この時から、人の記憶は都合のいいように改竄されることを学び、当事者両名から話を聞かないと一方だけでは事実と異なることを学んだ。
タクシーに跳ねられ、走馬灯を知った小学生時代
横断歩道がないけれど、横断歩道は遠いし車通りが多い道ではない。
そう思って右見て左見てダッシュで渡った瞬間
左からきたタクシーのフロントバンパーに見事にぶつかって空を飛びました。
いや、人ってほんとに空飛べるんだなとか思うくらい、マジで走馬灯で着地するまでがほんとにスローモーションではっきり見えた。
タクシーからしたらお前当たり屋かよ!くらいの勢いで飛び出してきてびっくりしたと思う。
着地するとアスファルトに滑り血だらけで服もズタボロ。
やばい!こんな服破いて汚して親父に怒られる!!
タクシーの運転手さんから「大丈夫?!」と声をかけられたものの、真っ先に親父の顔が浮かび、足を引きずりながらも何もなかったことにしようと何食わぬ顔で平然と歩道を歩き「大丈夫です!」とその場を当て逃げならぬ、当たり屋逃げした。
何か起こすたびに殴られるので、今日も絶対やられると思って家に帰らず逃げ回ってたんですが、そんな血だらけでどう見ても怪我してる小学生を街がほっとくわけもなく、「お宅のお子さん血だらけで歩いてたよ」と報告があったのか父親とばったり。
怒られないで心配されたのはこれが初めてで最後の記憶。
横断歩道は右を見て、左を見て、右を見たらもう一回左を見る、フリーランスとして石橋を叩いて渡ることを学んだのはこの時。
池田から鶴田に名前が代わって新しい学校でサッカー少年に
父が他界し、しばらくは近所のおじいちゃんの家に住みながら学校に通っていた。
端折りますが小学校2年生で離婚していた母の元に移り名前が池田から鶴田に変わった。
名前って変わるんだなと思いつつ、「鶴」の字が書けず、なんてめんどくさい漢字なんだくらいに思ってた。
厳しかった父やおじいちゃんおばあちゃんの元を離れると、それを知っていた母はだいぶ優しかったのが自由の始まり。
ディズニー以外は見るの禁止されてたTVやファミコンを覚え、野球少年からサッカーに転校して、自分の好きなことをとことんやる子に。
だがしかし、うまくはないのもこの時からで、下手の横好きに。
何故かジャニーズ事務所でジャニーさんと顔面0距離になり、ビビってたじろぐ中学生時代
姉のジャニーズ好きがきっかけで、姉が弟をオーディションに応募するというよくある話。
お世辞にもかっこいい部類ではなく垢抜けない少年が2次審査に進むとは思ってもみなかった。
受けに行く気は全くなかったのですが、行ったら1万円、受かったら5万円あげると姉に言われてお金に釣られてひょいっとオーディション会場へ。
会場は当時六本木にあったテレビ朝日横のレッスン場。
テレビ朝日の前には新日本プロレスのグッズショップである闘魂ショップがあり、そっちに目を取られてると、目の前に見たことない女性の整列が!
びっくりしてると一人の女性がこちらに歩いてきて「もしかしてオーディション?会場はあの右の横の建物だよ。がんばってね」と教えてくれた。
昔話で今はこんなことないと思うのですが追っかけって決まり事があったりすごいんだなっと。
2次オーディションはジャニーさんと面談で、1vs1。
当時メガネをかけていた自分はジャニーさんから
「ユーちょっとメガネ外してみなよ!」
「ミーもコンタクトなんだよね。ほら」っと顔を近づけて目を見せてくる。
「もっと近くで!」「もっと」っと、いつの間にか言われるがままに近づくと顔面ゼロ距離で、うわマジなやつじゃん。。。っと幼いながらに恐怖を抱き、「ユーほんとに(ジャニーズ)やる気ないの?」と聞かれても「ないです!」っとキッパリ答えて早々に後にした。
この時やる気ありますと答えていたら色んな意味でどうなっていたんだろうか....
手に職をつけるために工業高校電気科に進むも失敗
どう考えても頭は良くないし、運動神経も良くない。
将来困るぞと言われ、手に職をつけるために工業高校の電気科へと進んだ。
とはいえ、電気が好きで入ったわけではないのでマイコンにゲームのプログラムを入れたり、win94が流行るとPCを買ってもらったのが始まりで、WEBの世界へと引き込まれた。
htmlを覚えたのはこの時で、一時はhtml4に苦戦したものの今ではコピペでカスタマイズできる時代なので、この時の知識は役に立っていて写真以外の事業としてたまに役立っている。
電気はダメ、それなら自分が好きな写真を仕事にしたい!
好きなこと以外は本当にだめ。
好きでも下手の横好き。
それでも、何か好きなことを色にしたいと思い、親父の形見でもらったカメラが趣味だったことを思い出した。
サッカー選手になれないなら、サッカーやプロレスなどスポーツに関わる仕事がしたい。
そう思い付属の大学には進まずに写真専門学校に進んだ。
これが正解で、相変わらず学年でびりの成績で写真のセンスもなかった自分が、2年後にはプロレス雑誌「週刊ゴング」に就職できた。
就職できた決め手はデジタル化が進みPCに詳しいこと。
巡り合わせって不思議なもので、こういう運は持っていて諦めなければいつか夢は叶うんだなと。
5年間勤めた出版社がガサ入れが入り、出版停止で突然明日から無職
3年ほど勤めた出版社がM&Aで他の会社に買い取られ体制が変わった。
それからしばらくはいつも通りの毎日色んな団体に撮影に行く日々だったけれどもある日突然会社にガサ入れが入り、会社の前にはTVカメラ。
写真部のテーブルにはガサ入れにきた人(警察なのか?)が、ちょうどいい休憩場所になってるのか呑気にコーヒー飲んで座ってる。
え?なんか段ボール多少持っていったりしてたけどTVドラマで見てたガサ入れと違うじゃん、ってちょっと思ったけども、これも貴重な体験だったと思う。
人生において必要な経験かといえば不要であり、したくない体験だったけど。
この日を境に、出版停止になり全社員が「明日からもう来なくていいよ」という状態に。
突然にフリーという名の無職になったのだ。
制作会社で動画編集を学び、体調を崩し天職を知る
救いの手を差し伸べてくれたのは、プロレス関係の映像を制作する会社。
そのままプロレス関係のノウハウを活かせる仕事を選び、勤めてみたものの当時は1ヶ月のうち数日帰れればいい方。
椅子を並べて2階建ベッドにして先輩たち二人が並べた椅子の上と下で寝てる。
出先で寝るということができない自分は深夜か早朝まで作業して自転車で1時間かけて帰宅。
2、3時間寝てまた自転車で出社するを繰り返していた。
そんな生活も体が強くなかったのか1ヶ月で体調を崩し、このままじゃ生きていけないキツすぎると思い、申し訳ない気持ちで退社。
さて、これからどうしようとたこ焼き屋やお好み焼きや、アパレルなどを受けるも不採用。
そんな中で見つけたのがキヤノン一眼レフカメラ販売員のお仕事で、面接に行くと「いつから来れる?」と即採用。
もう写真で生きていくしかないなと覚悟を決めたのだった。
自分の価格を交渉する力を身につけた量販店時代
初めは販売員を育成するサポート業務として働いていた。
各店舗に配属されるスタッフに一眼レフの楽しさや使い方を落とし込みながら機材のセールスポイントをレクチャーするお仕事で、人に教えてその人が上達することに楽しさを覚えた。
しばらくすると、きっかけがありキヤノンの子会社に移籍して実際に常勤として働くことに。
ここで、値段の交渉の仕方や価格で販売するよりも、信頼や使いやすさで販売するセールストークを身につけた。
フリーカメラマンのみで勝負する!
2010年に常勤なども辞め、カメラマンでもう一回食べていこうと決意して退社。
購入後のお客さまってどうしてるんだろうなと、気になったことをきっかけにブログをスタート。
元々は苦手だったポートレートの機会を増やすべく、コスプレ撮り始めたのをきっかけにストロボライティングのパターンを増やしたりした。
Instagramでディズニーの写真アップしてるのが繋がって行って、知り合いが増えてブロガーズフェスティバルに行くと、Webの世界が一気に広がりぱくたそにカメラマンとして参加することに。
この時からWebメディアの仕事が一気に増えていって、スポーツや建築だけでなくWebメディアの仕事も増えていって、写真事業の3本の柱ができた感じ。
月商100万円を目指して達成できたものの、どん底に落ちる
事業をしていれば目標の数値はあった方が物事を考えやすいし動きやすくもなる。
例えば1ヶ月30日として考えて1日35000円であれば、30日間働けば100万円を超える。
1日35000円を目標に1時間の仕事でも撮影料は2万円を目安にして、下回るお仕事は内容によってお断りしたりするように自分の価格設定をすると、新しい仕事が増えていき数年ほどかかったものの、1日35000円にはなるようになったり、1件だけでなく2、3件受ける日も増えた。
増えて自分の体が足りなくなってからは、お願いできるものは知り合いにお願いしたりして、徐々に自分の単価も5万円まで上げていき、年商1000万ギリギリいかないくらいになった。
毛利元就の”三本の矢”ならぬ柱を軸に仕事を考える
一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた、毛利元就の三矢の教え。
20代の時社員なので当たり前といえば当たり前だけれど、その会社の仕事しかしてないのでその会社の仕事が傾いた時、共倒れしてしまったのをきっかけにどこかの仕事がなくなったりしても、他の2本の柱があれば共倒れすることはない。
フリーランスになってから、どこか1社に偏ることがないように写真事業ではできる限り3つの軸を置くようにしている。
例えば自分の場合は、スポーツ・建築・WEBメディアの撮影だ。
どうにかなるで生きてきたけれど、どうにもならなかった
去年と今年はマジでしんどくて、コロナ禍でだいぶ仕事は減って1本だけじゃなく2本の軸が崩れマジこれは今年こそ廃業かもしれないなと思うくらい減った。
前述した年商1000ギリ行かないが1/3以下に転落した。
自分の生き方には後悔していてかなり切り詰めて生きていて、今も四苦八苦してはいるのだけれど、10月くらいからWebメディアが復活したおかげでどうにか来年もカメラマンとして生きていけそう。
今までどうにかなるでなんとなくお金を使って生きてしまったけれど、もう欲しいものもそこまではないので仕事上必要なカメラとかだけにして、今更だけどちゃんと貯蓄や運用をしていけるようにしたいと強く感じたラスト30代だった。
これからどうする?40歳からの生き方
振り返ると、リンクしていないようで、フリーとして働いていくことは人生の中で培っていて、学生時代には石橋を叩いて渡ることや、好きを極めること。
働き始めてからは仕事に関する思想や交渉術を学び、なりたかった自分にはなれたんだと思う。
会社員であればプレイヤーから管理職になってるような年代だし、シフトチェンジも視野の中には入ってたり、PVなどの動画撮影には興味があって一眼カメラのレンズワークを活かして今からチャレンジできるならその分野にもいってみたい。
やりたいことは大体やったので、あとは平穏にいつかまた犬と一緒に暮らせるように頑張りたいなと思います。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。
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